今回は、井上晴美さんの現在から過去について詳しく解説していきます。
井上さんはメキシコ人の夫と2005年に結婚して3児をもうけますが、2024年に離婚を発表後は長野や地元・熊本で子育てをしながら自給自足の生活を送っています。
そんな井上晴美さんについて、当記事では時系列順に詳しく解説していきますので、ぜひ最後までご覧ください!
井上晴美の過去と生い立ち〜松田聖子にあこがれて
井上晴美さんは、熊本県熊本市の田舎で、賑やかな9人家族として育ちました。
兼業農家のお父さんのもと、家族みんなで助け合いながら楽しく過ごしていたそうです。
幼い頃からテレビの世界に憧れ、松田聖子さんみたいに「可愛い!」って言われたいなぁなんて思っていたのに、周りからは「田舎からアイドルなんて無理だよ」と冷やかされることも多かったみたい。
でも、晴美さんは夢をあきらめず、小学校からこっそりオーディションに挑戦したり、東京の事務所に応募したりと、地道に頑張っていました。
中学生のときには九州大会で勝ち進んで、全国大会にも行くことができたんだけど、思ったように行かず、他の道を考えるように。
結局、熊本の高校に行くことになったけど、心のどこかで「ここじゃない!」って感じていて、数ヶ月で辞めることにしたそう。
周りが「本当に夢を追うの?」って呆れ顔でも、自分の決意をしっかり持って、芸能界への道を進むことにしたんです。
井上晴美 念願のデビュー!
井上晴美さんが16歳の時、ついに憧れのアイドルデビューを果たしました!
高校1年生で東京に上京することになり、その条件としてアイドル事務所に入ることが求められました。
初めての一人暮らしは、東京の中野近くのアパート。
最初はビールを飲むおじさんたちとのギャップに衝撃を受けたそうですが、それが逆に「これが東京なんだ!」っていうワクワク感を与えてくれたそう。
その後、晴美さんはテレビ朝日の「桜ブ!」という番組のオーディションに合格。
その時は、いろんなプロダクションから集まった子たちと一緒に活動していて、実はそのグループはあまりアイドルっぽくなくて、ドラマやモデル活動をしている子たちも多かったそうです。
晴美さんも「クレヨンしんちゃん」の主題歌を歌ったり、ミュージックステーションに出演したりと、かなりの経験を積んでいましたが、やっぱりアイドルとしての道は簡単ではなく、ダンスが苦手だったりと悩むことも。
それでも、夢を追い続けていた彼女は次第にグラビア活動にも挑戦。
水着姿にも抵抗がなく、楽しみながらバラエティ番組にも出演。
忙しい毎日で高校は中退しちゃったけど、親も応援してくれていたそうです。
「高校卒業しとけばよかったな」と振り返る晴美さんですが、地元では彼女の活躍を誇りに思っている人が多く、家に帰るとポスターがどんどん増えていくのを見て嬉しく感じているとのこと。
九州弁が抜けない晴美さんですが、テレビに出ることで自分の夢を叶えてきた彼女の姿は、田舎からのアイドルの道のりをしっかり証明しているんですね。
なんでもチャレンジした芸能界時代
井上晴美さんは、芸能界でのキャリアの中で、たくさんのチャレンジをしてきました。
あるとき、伝説のヘア◯ード写真集を出すことになったのですが、最初は「本当にこれやるの?」と戸惑った部分もあったみたいです。
でも、自分がやりたいことや、できないと思っていたことに挑戦するのが好きな彼女は、好奇心旺盛で、バラエティ番組でも「やりたくないな」と感じることはなかったそうです。
心霊スポットの肝試しみたいな企画もあったけど、これも結局は「良かった!」と思える経験になったんだとか。
そして、ある時、当時の事務所の社長から「キャンペーンポスターの撮影を君がやることになった」と聞かされ、普通のやり方では面白くないから、社長が提案したのが「坊主にして、彫刻みたいな雰囲気で撮影しよう!」というアイデア。
普通じゃないことを考えるユニークな社長に感心しながら、晴美さんも「それ、いいね!」と乗り気になったそうです。
坊主になるのは仕事でしかできないから、「これやったら、事務所に怒られるかな」と思いつつも、挑戦を決意。
結果、井上さんの歴史の輝かしい1ページとなりました。
井上晴美がメキシコ人の夫と国際結婚
井上晴美さんは2005年にメキシコ人の夫と国際結婚をしました。
実は、二人が出会ったのは20年ほど前、井上さんがカナダで留学していたときのことです。
カナダでの生活を通じて、異文化交流や国際的な視野が広がった井上さんは、そこで運命の人と出会いました。
夫との結婚後、彼は日本に移り住むことになりましたが、井上さんはその時には日本に戻っていませんでした。
彼女は、夫が日本に来た際、長野での子育てに対する彼のイメージを強く持っていたようです。
「子育てしながら仕事ができる」と思っていた夫ですが、実際には二人の間で育児と仕事を両立させることの難しさがあったことを認識しました。
子育てが始まると、井上さんは一時的に仕事を休むことにしました。
というのも、彼女は子育て中に昼ドラの撮影を行っていた時期があり、そのスケジュールがとても過酷を極めたからでした。
撮影の合間には、サービスエリアで疲れ果てて眠り込んでしまったこともあるといいます。
また、子供が保育園に通っている間も、井上さんは舞台の仕事を続けていました。
その中でも特に印象に残っているのは、手話を使ったドラマへの出演です。
この役柄では、セリフを覚えるだけでなく、手話もマスターする必要がありました。
台本は厚さが教科書3冊分ほどあり、覚えるのにはかなりの努力が必要でした。
井上さんは、赤ちゃんを抱っこしながら手話の練習をしたり、DVDを再生して学んだりして、忙しい生活を送っていました。
この経験を通じて、彼女は手話の大切さを実感し、もっと学びたいと思うようになったと語っています。
井上晴美と3人の子供の現在
井上晴美さんは、最近3人目のお子さんを里帰り出産されたそうですが、毎回の里帰りのたびに、3人の子育てを一人でやるのは大変だなと感じていたとのこと。
「ここ(地元熊本)がいいな」と思いながら、誰かが近くにいると安心できるという気持ちもあるそうです。
長野では本当に知り合いや親戚がいないため、すべてを自分で背負わなきゃいけないというプレッシャーを感じることが多かった井上さん。
3人の子供がいる中で、女優業をすぐに再開するのは難しいですよね。家庭と仕事の両立は本当に大変です。
「家庭を取るか、仕事を取るか」との葛藤がある中で、全く何もしないと決めることもできるけれど、たまには仕事がしたくなる気持ちもあるそうです。
熊本に引っ越してからは、仕事を再開するタイミングを考えたり、長期のスケジュールが難しいと感じるため、仕事はできる範囲で調整していらっしゃるようですね。
最近では、スタッフや役者が子供を連れて現場に来て、託児所のような仕組みを取り入れているという話もあるため、日本も少しずつ変わってきているかもしれませんね。
こうやって子供を持つことへの抵抗感が減って、結婚や出産を考える人が増えるといいですね。
3人の子供を育てながら、熊本と東京を行き来するのはなかなか大変なことですが、井上晴美さんのようなしなやかな生き方は女性の理想そのものでもありますね。
続きましては、地元熊本に移住した井上晴美さんが体験した「熊本地震」についてです。
熊本地震で被災後に大阪へ
2016年、熊本地震によって自宅が全壊した井上晴美さん。
地震が起きたとき、ちょうど子供たちが寝ていて、私も台所で家の中がぐちゃぐちゃになっているのに気づいたそう。
冷蔵庫も倒れて中身が散乱し、電気も消え、どこに何があるかも分からない状態。
子供たちを起こすために走った彼女ですが、彼らは揺れを感じていなかったようで爆睡中。
それから、近くに住んでいる友人の家に電話をかけて、「大丈夫かな?」と確認し、友人も3人の子供を持っている家で、かつ旦那さんが帰れない状況だったので、井上さんも友人宅へ行くことに。
その日から、友人の家で生活を始めることになったのですが、次の日にはまた大きな余震が来ることが分かっていました。
道路が崩れたため、車を出すこともできず、すべて徒歩での生活に。
幸い、車の中には水や着替えを用意していましたが、友人の家は全壊していて、外の窓から手を伸ばして食料を取ることもありました。
冷蔵庫の中の食材は腐ってしまい、外で料理をするしかありませんでした。
大人は車の中で、子供たちはテントに入れて生活しました。
水やお風呂が使えない状態が続き、やがて周囲の温泉や銭湯を探すことに。
子供たちが痒くなってしまったので、近くの旅館で大部屋を借りて、そこを拠点にすることにしました。
避難所に行かない理由もあって、子供たちが周りの目を気にしたくないという気持ちがあったからです。
広い場所で子供たちが走り回れるようにしたいと思って、温泉もあって寝れる場所を探していました。
電話をかけても、どこも満室で泊まるところが見つからず、何軒も断られながら走り回っていました。
食べ物は支援としてもらえるおにぎりなどがあり、温かい食事を手に入れることができました。
この経験を通じて、家族や友人の大切さを改めて感じたという井上さん。
続いては、井上晴美さんのその後についてです。
地元熊本から大阪へ再び移住
熊本地震の後、なぜか大阪に行くことになった井上晴美さん。
熊本地震で避難してから1ヶ月ほど経ったとき、友人夫婦が関東に戻ることになったんだとか。
そのとき、井上さん一家は行くところがなくて、家も全壊しており、実家も全壊だったので、家族みんなが避難所になっていました。
そんなとき、たまたま大阪の友達から「うちに来ない?」という連絡があったとのこと。
それで、大阪に1年ほど滞在することになったそう。
大阪の小学校に通うことになった子供たちは、初めての大阪弁に衝撃を受けていて、九州とは全然違う言葉で、子供たちも大変だったんだとか。
でも、大阪の生活に馴染むうちに、家族も少しずつ前に進めるようになり、1年後、再び熊本へ。
というのも、関西の郊外で家を探したが、やっぱり子供たちが熊本に戻りたいと言い出したこともあり、地元へ帰ることに。
それから、熊本の市内で少しずつ家探しを始め、唯一見つけたのが、少し離れたところにある戸建てだったそうです。
市内のはずれだったこともあり、いくら熊本が地元の井上晴美さんでも土地勘がなかったので不安だったそうです。
とはいえ、結局その家に5年ほど住んだそうです。
振り返ってみると、大阪での生活は子供たちにとっても私にとっても大きな経験だったし、また熊本に戻ってこれたこともよかったですよね。
井上晴美さんについては、井上晴美が現在営む会員制スナックの場所はどこか【熊本県】でもご紹介していますので、ぜひご覧ください!
もう都会には戻らない 現在の井上晴美
井上晴美さんは、都会には戻らないと決意し、現在は自給自足の農業生活を送っています。
田畑がある場所での生活を求め、約15年前からその準備を進めてきました。
農作業も実際に井上晴美さんご自身が行っています。
彼女の実家は農家ではないものの、自分で育てる楽しさに目覚めたそうです。
最近は雨や雑草に悩まされることもありますが、農薬を使わない美味しい作物を育てることを目指しており、家庭菜園として、ブルーベリーやイチジクを植え、家族のために育てることが楽しみなんだとか!
また、井上さんは地域の農家とも協力し、みんなで農機具を共有するアイデアも提案しています。
都会の生活から離れ、自然と共に過ごす彼女の姿勢は、農業に対する新たな価値観を感じさせますよね。
以上、井上晴美さんの現在と過去について解説しました!